夢の正体 2023/10/18
皆さんいかがお過ごしでしょうか。
先日、ついに念願のバンカーリングを手に入れました。
買おう買おうと思いつつ、何かのついでに買えばいいと後回しにしていたこの代物。
いざ取り付けてみるとやはりスマホで動画を見るときに助かりますし、手に持っている時の安心感が違います。
と、ここまでは良かったのですが、重大な難点がひとつ。
折りたたみ式のバンカーリングなのですが、どうにも固いのです。
指に引っ掛ける所を中心部からはずす際、爪が高確率でもっていかれます。
使い古していけば滑らかになっていくのかもしれませんが、その間に一体爪を何mm犠牲にするのか…。
いつか取り返しのつかないほど爪がひび割れるかもしれないと、毎度ちょっとした賭けに出る日々です。
琴音です。
最近、夢というものについて考えることがありました。
父と夢について語った時のことです。
今の私には、はっきり言って明確な夢がありません。
幼い頃から音楽をして生きている人になりたいと思い続けていましたが、語弊を恐れず言うならば当初願っていた夢は叶ってしまったようなものです。
(そもそも資格がいるわけでもない以上、何を持ってという定義すら怪しいのですから私の夢など最初からあって無かったのかもしれませんが。)
勿論自分の未熟な部分を探せば沢山ありますし、やりたいことも沢山あります。
ですがこれをしたいあれをしたいというのはあくまで願望であって、夢というには足りないのです。
自論ですが、私にとって夢とは単なる願望ではなく、どれだけ切望しようと簡単に叶わないがそれでいて心が躍り人生の指針となる…そんなものだと考えています。
こうした拘りじみた考えがあるからでしょうか。
ひとつ夢を叶えたのであれば第二の夢を作るべきと分かってはいるのですが、考えれば考えるほど結論が出なくなっていきます。
夢と言うに足る事柄が浮かばないのです。
…という話をドライブの最中父と話しておりました。
すると父はおもむろに、好きでよく見ているという動画の話をし始めました。
日本へ来た外国人に日本食を振る舞うという趣旨の動画らしいのですが、それに出てくる何割かの外国人は日本に来るのがずっと夢だったと話すようなのです。
「世の中休みの度に海外旅行へなんて人もいるのに、そうやって長年の夢だったという人もいる。相応のお金と多少の知識があればできることでも夢っていう人がおる。」と。
それから続けて、学校の先生になりたいという子供の話も聞かせてくれました。
「試験に受かる程度の勉強して教員免許をもらえばなれる。どう頑張っても無理なもんじゃないのにな」と。
要するに夢という概念や度合いは人それぞれで、そうそうできないことも夢と言えるし、少し頑張れば叶えられるくらいでも夢と言える…
もっと言えば、誰かにとっては取るに足らない簡単なことでも誰かにとってはとても難しいことであったりする、という話なのです。
私はそれを聞いてどこか、夢というものをロマンティックに考える必要はないのだな…とえも言われぬ感覚を覚えました。
たしかに、夢の価値を難易度で区別する必要はないなと。
そもそもその難易度自体すら、人によって違うはずですよね。
そして最後、多くの場合人の言う夢は手段であって目的ではない、本当に叶えたいことは夢の先にあると話す父。
〇〇になりたいではなく、〇〇になってこんなことがしたい・こういう人になりたいというのが本当の目的なのだと。
「手段と目的が混同すんのは良くない、目的を叶えるための手段や」といい事を言った風に呟く父。(笑)
ありふれた言葉ではありますが、私と照らし合わせるのなら、夢そのものを作るよりその先でどうなりたいか・どうしたいかを考えた方が良い…となるのでしょうか
そうすると、音楽をして生きている人になりたいという夢はまだ途中段階と言えるのかもしれません。
自分自身で願望レベルと切り捨てていたものの中にも、夢と呼べるものがあるのかもしれません。
結局最後までオープンエンドな語り合いとなり、結論も出ないままですが、夢というものの正体に近づいた気がしました。
ゆっくり少しずつ、自分の思う次の夢を探していこうと思った今回。
皆さんは夢をどのようにお考えでしょうか。
そして、どんな夢を持っているでしょうか。
是非そんなことを今一度、考えてみてください。
っはい!!
今回はこの辺で終わります。
ご清覧ありがとうございました!
また来週。
先日、ついに念願のバンカーリングを手に入れました。
買おう買おうと思いつつ、何かのついでに買えばいいと後回しにしていたこの代物。
いざ取り付けてみるとやはりスマホで動画を見るときに助かりますし、手に持っている時の安心感が違います。
と、ここまでは良かったのですが、重大な難点がひとつ。
折りたたみ式のバンカーリングなのですが、どうにも固いのです。
指に引っ掛ける所を中心部からはずす際、爪が高確率でもっていかれます。
使い古していけば滑らかになっていくのかもしれませんが、その間に一体爪を何mm犠牲にするのか…。
いつか取り返しのつかないほど爪がひび割れるかもしれないと、毎度ちょっとした賭けに出る日々です。
琴音です。
最近、夢というものについて考えることがありました。
父と夢について語った時のことです。
今の私には、はっきり言って明確な夢がありません。
幼い頃から音楽をして生きている人になりたいと思い続けていましたが、語弊を恐れず言うならば当初願っていた夢は叶ってしまったようなものです。
(そもそも資格がいるわけでもない以上、何を持ってという定義すら怪しいのですから私の夢など最初からあって無かったのかもしれませんが。)
勿論自分の未熟な部分を探せば沢山ありますし、やりたいことも沢山あります。
ですがこれをしたいあれをしたいというのはあくまで願望であって、夢というには足りないのです。
自論ですが、私にとって夢とは単なる願望ではなく、どれだけ切望しようと簡単に叶わないがそれでいて心が躍り人生の指針となる…そんなものだと考えています。
こうした拘りじみた考えがあるからでしょうか。
ひとつ夢を叶えたのであれば第二の夢を作るべきと分かってはいるのですが、考えれば考えるほど結論が出なくなっていきます。
夢と言うに足る事柄が浮かばないのです。
…という話をドライブの最中父と話しておりました。
すると父はおもむろに、好きでよく見ているという動画の話をし始めました。
日本へ来た外国人に日本食を振る舞うという趣旨の動画らしいのですが、それに出てくる何割かの外国人は日本に来るのがずっと夢だったと話すようなのです。
「世の中休みの度に海外旅行へなんて人もいるのに、そうやって長年の夢だったという人もいる。相応のお金と多少の知識があればできることでも夢っていう人がおる。」と。
それから続けて、学校の先生になりたいという子供の話も聞かせてくれました。
「試験に受かる程度の勉強して教員免許をもらえばなれる。どう頑張っても無理なもんじゃないのにな」と。
要するに夢という概念や度合いは人それぞれで、そうそうできないことも夢と言えるし、少し頑張れば叶えられるくらいでも夢と言える…
もっと言えば、誰かにとっては取るに足らない簡単なことでも誰かにとってはとても難しいことであったりする、という話なのです。
私はそれを聞いてどこか、夢というものをロマンティックに考える必要はないのだな…とえも言われぬ感覚を覚えました。
たしかに、夢の価値を難易度で区別する必要はないなと。
そもそもその難易度自体すら、人によって違うはずですよね。
そして最後、多くの場合人の言う夢は手段であって目的ではない、本当に叶えたいことは夢の先にあると話す父。
〇〇になりたいではなく、〇〇になってこんなことがしたい・こういう人になりたいというのが本当の目的なのだと。
「手段と目的が混同すんのは良くない、目的を叶えるための手段や」といい事を言った風に呟く父。(笑)
ありふれた言葉ではありますが、私と照らし合わせるのなら、夢そのものを作るよりその先でどうなりたいか・どうしたいかを考えた方が良い…となるのでしょうか
そうすると、音楽をして生きている人になりたいという夢はまだ途中段階と言えるのかもしれません。
自分自身で願望レベルと切り捨てていたものの中にも、夢と呼べるものがあるのかもしれません。
結局最後までオープンエンドな語り合いとなり、結論も出ないままですが、夢というものの正体に近づいた気がしました。
ゆっくり少しずつ、自分の思う次の夢を探していこうと思った今回。
皆さんは夢をどのようにお考えでしょうか。
そして、どんな夢を持っているでしょうか。
是非そんなことを今一度、考えてみてください。
っはい!!
今回はこの辺で終わります。
ご清覧ありがとうございました!
また来週。