Kotone Note 琴音 すみっこ目せん

この時だけ耳を取り替えられないものか 2022/11/02

皆さんいかがお過ごしでしょうか。
私は先日行ったお久しぶりインスタライブの余韻がまだ若干残りつつあります。
改めてご覧くださった皆さんに感謝申し上げますと共に、皆さんから温かいお言葉によって自己肯定感が絶賛爆上がりしているところです。
とはいえ以前ツアーの時などにも感じたことですが、やはり時間が空くとか機会が減るというのはやる側からすると痛手なもので、話がまとまらなかったり最後の弾き語りで必要以上に緊張したりと内面的な劣化を実感しました。
メンタルもまた立て直していかなくてはと思うこの頃です。
琴音です。


最近暇つぶしにカメラロールを漁っていたところ、数ヶ月前の動画が出てきました。

以前バンドを組んでいた先輩プレイヤー方が自分の帰省に際して会いに来てくださった時のものでした。

数年ぶりのセッションをし楽しく過ごしたもので、改めて見返してもニマニマが止まらず幸せな気分になりました。

と同時に、そのセッション後の母とのやりとりを思い出しました。

母はピアノを弾くので、先輩方が帰ったあとも彼らの演奏は素晴らしかったとホクホクしており色々と良さを話していました。

それに素敵だったねとウンウン相槌を打ちながら、頭の片隅で落ち込む自分がいました。

きっと母の思っている「素晴らしかった」の内容と私の感じた「素敵だった」の内容は全く次元が違うんだろうなと悟ったからです。

このように思ったことはその時が初めてではなく、母のような周りの人の発言から察することが多々ありました。

実際自分もギターを弾くので、他にギターを弾いている人を見るとあの音色は…とかあの弾き方は…ということだけでなく、より抽象的な感覚からもその凄さを感じることがあります。

ですが本当はそれすらきっと上澄みの部分だけなのだろうなと感じていたりもします。

またギター以外に関しては、自分がそもそも演奏出来ないから扱えているだけで凄いという気持ちが先行しているのもあり、ある程度のところから先は素晴らしさを感じられていない実感を度々得ます。

活動柄、ライブのリハーサルや制作などで色々な方の演奏を拝見・拝聴する機会がある私。

質の高い演奏を前にした際は有難いと思うと同時に、ここに座ってるのが自分ではなかったら…別のプレイヤーか誰かだったらもっとこの素晴らしさを実感できるのではないか、今の私では感じられない次元でこの演奏に感動できたのではないかと思うと何だか無性に申し訳なくなります。

とはいえ申し訳なく思いつつも恐縮する対象もいない訳で、そう感じた瞬間に私の耳が肥えることもないので、明後日の方を眺め黄昏れるしかありません。

結局のところ、地道に自分の耳と経験を育てるしか術はないのだろうと思いますが、これもまたそう簡単なことではないのですよね…。

音楽とは奥深く、故に続ければ前は感じなかった喜びに気づき、虚しさにも気づくようになるのかもしれません。

少々素のネガティブが出てしまいましたが、他の分野ででも共感してくださる方がいらっしゃれば嬉しいです。

音楽も経験も、まだまだ浅いなと思った出来事でした。


っはい!!
今回はこの辺で終わります。
ご清覧ありがとうございました!
また来週。