Kotone Note 琴音 すみっこ目せん

ハッピーエンド主義 2022/03/30

皆さんいかがお過ごしでしょうか。
先日のツイートで気づいた方もいらっしゃるようでしたが、只今帰省中です。
よく聞く話ですが、何もしなくてもご飯が出てくる凄さを度々実感します。
ご飯以外でも、親の世話焼き加減にこんなかんじだったっけと驚きます。
そして弟の様子を観察し、自分もこんな感じで親に色々任せっきりだったのだろうなと勝手にしみじみ。
これから一人暮らしの自由さと大変さを実感して何か変わるのか、興味深いものです。
琴音です。


最近「屍人荘の殺人」という映画を偶然見つけました。

元来ミステリーに目がない私はタイトルにつられて早速鑑賞。

突如ゾンビパニックが起きたり逃げ込んだ先の別荘でも事件が起きたりと、内容も見た目も刺激的な展開でしたが、一点残念なことがありました。

その映画はバッドエンドだったのです。

残り数分、主要人物一人のずっと信じ続けていたことが一気に打ち砕かれ映画は終わります。

久しぶりにしっかりしたバットエンドを見たもので、かれこれ数週間引きずっています。

引きずるというのは厄介なもので、何かの度にふと思い出してしまいその時の虚しさを度々体感します。

そもそも私自身ハッピーエンド主義なところがあるので、バットエンド自体あまり好きではありません。

中にはバットエンドが好きな人もいますし好みは様々だと思いますが、今回はハッピーエンドについて自分の独断と偏見を少し書いてみたいと思います。

小さい頃、悪者がとことん悪者、善人がとことん善人で悪者だけが成敗され、皆が幸せになるような安直な物語が好きでした。

今以上にネガティブ思考で、家族以外との人間関係が上手く作れない子供だったので、現実と似た不条理さのあるバットエンドが嫌いでした。

また辛い結末を迎える物語は、使われるバックミュージックや色合いも暗い場合が多いので、怖がりな自分は恐怖心から一層苦手意識がありました。

一方でポジティブで単純で、誰も傷つけず希望を持たせてくれるハッピーエンドに憧れや夢を抱いていました。

今も同じような感覚はそれなりにありますが、日々を過ごしていく上で自分自身の状況が変わっていったり視野が多少広くなったりして別の理由が新たに加わるようになりました。

以前はバットエンドというものに辛さなどマイナスな奥深さがあると感じていたので、その奥深さを嫌っている自分は単純が好きなのだと思っていたのですが、その考えが少し変わりました。

バットエンドはバットエンドであるということだけで色々な効果を生んでしまうと感じ始めたからです。

常々辛さや悲しさといった負の感情は、喜びや嬉しさよりも痛烈に感じられる傾向があるように感じます。

これは辛さや悲しさを感じる状況が、感じた本人の現在もしくは今後にとって何かしら悪い影響を及ぼす危険性があるとどこかで分かっているからだと思います。

それ故にバットエンドはそれだけでショッキングなものとして残りやすく、見ている側にその結末以前のシーンを一層綺麗に感じさせたり、見る人によっては安心感を抱かせたりすることができるように思います。

その実感に、いつからかある種の簡単さを覚えるようになりました。

一方でハッピーエンドは上に書いたような心理は働きません。

良い結末は得た本人に何か悪い影響があるかもなどどいう危険性が想起されにくいので何となく温さがでてしまいます。

また単にバッドエンドとハッピーエンドでは、母数の量が違います。

そのため、単に紆余曲折ありましたが結末は良いものになりましたというだけでは流されてしまいます。

だからこそ現代で評価されているハッピーエンドの物語は、過程や結果の先にもっと大事な何かがあることを強調しようとする雰囲気があるように思います。

その難しさを考えるとより違った奥深さを感じられる気がするのです。

つまりはハッピーエンドの奥深さに気づき始めてより好きになりましたという話なのですが…なんとも伝えづらい題材を書いてしまいました。

そんなこんなで物語を勧められたりすると結末はどうなのか確認したくなったりするこの頃。

結局あらすじだけみて止めるのですが、毎度気になって仕方ありません。

映画オタク、小説オタクの方などいらっしゃいましたら色々申し訳ありません。


っはい!!
今回はこの辺で終わります。
ご清覧ありがとうございました!
また来週。