Kotone Note 琴音 すみっこ目せん

立ち止まって 2021/09/29

皆さんいかがお過ごしでしょうか。
ミニアルバム「君は生きてますか」リリースから1週間が経ちました。
沢山の感想コメントありがとうございました!
色々なコメントがありましたが、どれも素敵なものばかりで心温まりました。
沢山聴いて頂けると嬉しいです。
琴音です。

ここのところ、何かとバタバタで周りを観察する余裕がなかったのですが、先日久しぶりに近くのコンビニに行きました。

買い物を済ませ家に帰る途中、ご近所さんらしき2人がバスケットボールの練習をしていました。

どうやら父親が息子に稽古をつけているようで、時折励ましながら熱心に指導する父親と少し苦しそうな表情ながらもついていこうとする息子の様子に、こんなご時世でもスポーツは親子のコミュニケーションの機会になっているのだとしみじみ。

と同時に、自分も以前は辛い部活に耐えた時期があったなと記憶を巡っておりました。

そうやって昔のことを回想していると、以前辛い思いをしたことや苦しかった出来事が色々と蘇ってきました。

未だに納得できないこともあれば、何故あの程度で傷ついていたのかと思うこともありました。

そして当時、大きくなればもっと嫌なことが沢山あると言っていた人達は、幼い時の私の痛みが小さく感じられる程の経験を沢山して、その度に精神的にも強くなっていたんだろうなと気づきました。

ですが、もし私が誰かに辛い出来事を打ち明けられた時、それが自分にとっては大したことだとは感じられなかったとしても、心の中で幼いと侮ったり今の自分と比較して小さなことだと決めつけたりはしたくないなとも思いました。

なぜなら、こうして考えているうちに、それでもその時の自分は確かに苦しいと感じていた、と昔の自分に焦点を当て始めたからです。

今の私が以前より精神的に強くなったのは、自分を強くする辛い出来事があり、その度に"辛い"というゲージを拡張して耐えられる容量を増やしてきたからです。

ならば、まだその経験をしていない誰かに、その容量の大きさを比較して物を言うこと自体が野暮です。

その人の今持っている容量が限界になっているという事実を認め、それを軽減するか容量自体を拡張させるにはどんな言葉をかけるべきか、という視点を持てたなら、たとえ内容が同じだろうと発する言葉はいくらか変わってくるだろうと思います。

自分自身、20歳の大台に乗るまであと約半年というところまで来ています。

急な変化はなくとも、少しずつ、ふとした場面で考えて、大切な人をより大切にできるようになっていきたいと思う今日この頃。

立ち止まってみるのも悪くありませんね。


っはい!!
今回はこの辺で終わります。
ご清覧ありがとうございました!
また来週。